こんにちは、精神障害者のニートです。今回は「優生思想の危険性」についての話です。
私は3年ほど前に障害者になってからずっとニートを続けているのですが、そうすると親やネットの住民から「お前は役に立たないんだから死ねばいい」などと言われることがあります。
それで私自身は別にそんなことを言われても気にならないのですが、(そもそもの話)そういう
みたいな考え方って優生思想的な考え方で危険だと私は思うんですよ。…なぜ危険だと思うのか知りたくないですか?
そこでここでは
- 優生思想とは何か?
- 優生思想は特別な考え方ではない(=誰でも持ち得る)
- 優生思想が危険な理由
について書いていきますね。
優生思想とは?
ではまずは「優生思想って何?」という部分から説明していきます。
優生思想とは、簡単に言えば「優れた能力を持つ人間は生きるに値するが、劣った人間は生きる価値がない」とする考え方のことです。
つまり優秀だとされる人間の血筋が繁栄し、それと同時に劣っているとされる人間の血筋が衰退すれば人類がよりよくなるだろう…というような思想ですね。よくニートや障害者を差別するときの根拠になっている考え方です。
優生思想は特別な考え方ではない
さて、そのように書くと「自分はそんな考え方はしない」と思う方がいると思います。
しかし、(極端な話で恐縮ですが)日本が資本主義社会である以上、誰だって優生思想を持ちえるのです。ここからはその点について詳しく書いていきますね。
「ニートは死んだ方がいい」という考え方は優生思想
まず一つお尋ねしたいんですけど、あなたは「役に立たない奴は死んだ方がいい」などと一瞬でも思ったことはありませんか?
というか、普通の日本人なら思ったことがないわけがないですよね。そう思うから例えば仕事ができない人とか、働かない人に対してイライラするわけで、逆に思わない方が異常だと思います。
…で、そんなことを尋ねて何が言いたいのかと言うと、そういう考えは立派な優生思想ですよ、ということです。なぜならそれは「役に立つ人間だけ生きていればいい」と言っているのと同じだからです。
このように優生思想は割と誰でも持っている考え方なんですよ。だから優生思想は特別なものではないということは知っておいていただければと思います。
資本主義社会と優生思想
それで私は「優生思想は誰でも持ちえる考え方だ」ということ自体はある意味で仕方ないと私は思っています。それはなぜか?日本が資本主義社会だからです。
ではなぜ資本主義社会だと優生思想を持つ人が多くなるのかということですが、その理由は資本主義社会では「役に立つ人(=稼げる人・仕事ができる人)が偉い」からです。
資本主義社会では役に立てば人から褒められるし、役に立たなければ非難されますよね。ということは価値観的に「役に立つ人>>役立たず」となるので、「じゃあ役立たずなんていらないじゃん」という考え方になってニートや障害者を差別するようになるんですよ。
…まあ、だからといって私は別に資本主義を否定するつもりは全くありませんが、少なくとも資本主義社会ではこのような思想が生まれやすいということは知っておいた方が良いのかもしれません。
優生思想が危険な理由
さて、ここまで「優生思想は特別な考え方ではない」というお話をしました。次は「優生思想は危険だ」という話をしていきます。
優生思想は一見すると理にかなっているような気がしますが、一体何が悪いのでしょうか?なかなか簡潔に説明するのが難しいので、順を追って説明していきますね。
例えば、サルは生物的に人間よりも劣っているのか??
まず既に書いた通り、優生思想は「優れた人間を繁栄させ、劣った人間を抹殺する」ような考え方です。もし世の中が優れた人間だらけになれば、もっと人類が発展しそうな気がしますよね。この点だけ見ればすごく理にかなっていると思うのは無理もないと思います。
しかしこの考え方には大きな落とし穴があります。それは「優劣を決めるための基準が本当に正しいのか?」ということです。
例えば、人間はよくサルのことをバカにしますよね。なぜバカにするのかというと、サルは人間よりも知能が劣っているからです。つまり知能が劣っている=人間よりも下→「生物として人間よりも劣っている」と私たち人間は考えがちです。
しかし、サルはサルなりに繁栄して世界中で暮らしていますし、現代人が住めない環境(=森林など)でたくましく生き延びています。これは果たして「生物として劣っている」といえるでしょうか?
もちろんそんなことはないでしょう。立派に種として存続しているならそれは生物として劣っているとは言えません。
…一体何が言いたいのかというと、「知能」という点では確かに人間はサルより優れているかもしれませんが、だからといって生物としてサルよりも優れているとは言い切れない、ということです。
どんな能力が「役に立つ」かは環境次第
さて、上では分かりやすくサルと人間でお話ししましたが、これは人間同士を比較して優劣をつけようとした場合でも同じようなことが言えると思います。まあ確かに、
- 今の社会で必要とされる能力を持っている人は優秀
- そうでない人は役立たず
というのは(現代人である以上)その通りなのですが、だからといって「役立たずは死んだほうがいい」というのは極論すぎるのです。
それはなぜか?分かりやすい例を挙げましょう。
例えば今の日本社会では社交性があると良いとされています。人と上手く付き合えれば、多くの人と人間関係を良好に保つことができて人生楽しいでしょう。そういう意味では社交性は日本社会で生きていくうえで役に立つ能力だといます。
しかし極端な話ですが、無人島で一人でサバイバルしなければならない状況に陥った時、果たして社交性が役に立つでしょうか?当然ながらそんなものは全く役に立ちませんよね。だって一人なんだから。だからこの環境では社交性があるというだけの人は「無能」になってしまいます。
このように、どんな能力が役に立つかは環境によりけりです。だから日本社会では全く役に立たない人であっても、もしかしたら他の環境では役に立つかもしれません。つまり今の環境で役に立たないからといって抹殺してもいい理由にはならないということです。
優生思想の危険性は「今の環境で有利な能力を持つ人」だけを選別しようとしていること
以上を踏まえると、優生思想の危険性は「今の環境で有利な能力を持つ人」だけを選別しようとしている点にあるのが問題です。
もちろん今の環境で有利な能力を持つ人の比率を増やせば(今の環境が続くうちは)人類は発展するかもしれません。しかし、何らかのはずみで環境が一変したらどうなるでしょうか?
もし色々なタイプの人がいれば(多少の犠牲が出たとしても)人類が存続するかもしれないのに、同じような人ばかりを選別したせいで環境の変化に適応できずに滅亡するかもしれません。
このように人類が存続するためには多様性が重要だと思うのですが、それを無視して「目先の環境において有利な能力を持つ人」だけを選んで残そうとしているから優生思想は危険なのです。
おわりに
以上、優生思想についてとその危険性について私が思っていることを書いてきました。話をまとめると、
- 優生思想は特別な考え方ではなく誰でも持ちえる思想
- 優生思想は多様性を無視した考え方である点が危険
ということです。
まあなかなか難しい話題ですし、異論もあるかとは思いますが「こういう考えのニートもいるんだな」くらいに思って頂ければいいかなと思います。
今回は以上です。